2025年9月17日

【静岡の高校サッカー戦後史Vol.87】静岡学園サッカー部が1967年度に産声!テクニシャン集団の歴史はここから始まった!
【静岡学園①】基本に個人技重ね成長
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。静岡サッカー応援アプリ「シズサカ」でまとめてご覧いただけます。
1971年12月、静学サッカー部を預かるようになった井田勝通(前列中央)と当時の部員
個人技にこだわり抜く静学サッカー。その歩みは1967年(昭和42年)度に始まった。
産声を上げたばかりのサッカー部は、国体予選を兼ねた県総体に果敢に挑戦。大会記録によると、相手の棄権で1回戦は突破したが、2回戦は静岡工に大敗した。新参チームの悲哀を味わったが、「近い将来に必ず黄金期を築いてみせるぞ―と、ものすごいファイトと希望に燃えて部の建設に努力した」との当時の記述がある。
鈴木常夫がコーチ就任
創部2年目の68年度、草創期の藤枝北を指導した実績のある、鈴木常夫(静岡市葵区在住)がコーチに就任して、本格的なチームづくりがスタートした。鈴木は夕方になると勤務先から駆け付け、基本技を徹底指導した。同時に生活態度にも重きを置き、真摯に取り組む姿勢を植え付けた。中学時代にボールを蹴った経験者も徐々に集まり、戦う集団を形成すべく一歩一歩階段を上がった。69年度に静岡市民大会で優勝すると、70年度には県スポーツ祭でベスト8に進出、2年生FWの石川操(J磐田スタッフ)が国体少年の部県選抜の一員に選ばれた。石川は翌71年度も国体選抜入りし、主将を務めた。
同じ71年度、野球部が一躍、脚光を浴びた。初出場した夏の甲子園で準々決勝まで勝ち上がったからだ。サッカー部は野球部の陰に隠れていた。だが、石川は自身の国体での活躍により「サッカー部を見る目が変わったのを感じた」という。
29歳の井田勝通が指揮官に
71年12月、新たな指揮官がやって来る。29歳の井田勝通(まさみち)である。静岡高―慶大を出て銀行勤めをしていたが、サッカー指導者への転身を決意、自ら売り込んで温め続けてきた夢を実現させた。こうして采配を振るうようになった井田の下、静学サッカーの新たな歩みがスタートする。当時の県高校サッカー界は、藤枝東以下有力校がしのぎを削り、ハイレベルの覇権争いを繰り広げていた。この中に新興チームが割って入るには―。井田が導き出した答えは、ほかと異なるサッカーをやることであり、南米スタイル、すなわち個人技の追求だった。
日本リーグ時代のフジタ工業で活躍した72年度卒の後藤元昭(静岡産大職)は、鈴木に続き、井田から指導を受けた一人だ。「鈴木さんから基本を、井田さんからは技を学んだ」という。この間にチームは成長を続け「上を狙えると感じた」と振り返る。(敬称略)
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