2025年7月3日
論説委員しずおか文化談話室

​【第173回直木賞候補作品から(2) 芦沢央さん「嘘と隣人」】 引退した刑事が直面する、ともすると見えない「悪意」。「捜査権なき捜査」が行き着く場所は

静岡新聞論説委員がお届けするアートやカルチャーに関するコラム。7月16日発表の第173回直木賞の候補作品を紹介する不定期連載。2回目は芦沢央さん「嘘と隣人」(文藝春秋)。

芦沢さんは2018年の怪談ミステリー「火のないところに煙は」(新潮社)が第7回静岡書店大賞小説部門で大賞に選ばれた。主要な文学賞を得るのは初めてだった。静岡県内の書店や図書館の関係者は心の片隅で「自分たちが世に送り出した」と思っていることだろう。直木賞候補は2020年の「汚れた手をそこで拭かない」(文藝春秋)以来2回目となる。

「嘘と隣人」は2022年の「夜の道標」(中央公論新社)に出てくる刑事の平良正太郎が主人公。新作における正太郎は警察を定年退職し、1年半がたっている。東急田園都市線たまプラーザ駅周辺の賃貸マンションで、妻と2人の生活。退職金で手に入るぐらいの、ささやかなついのすみかを探している。

刑事だったとはいえ、ミステリーの主人公には不適格ではないかというぐらい、何も起こらなそうな設定。だが、芦沢さんは平々凡々な日常の中に潜む大小の悪意を用意する。ママ友同士のちょっとした人間関係を気にする女。ストーカー化した元パートナーに悩む男。勤め先の引っ越し会社で搾取や人権侵害に直面する外国人労働者。

正太郎は、元刑事ゆえに彼らが直面する悪意に対し、時に巻き込まれ、時に自ら首を突っ込んで関わってしまう。そして、事象の背後にある真実を解き明かそうとする。リタイアしているのに心は刑事そのままだし、周囲も元刑事としての振る舞いを期待する。

警察を辞めているから「捜査権」がない。逮捕拘留して取り調べることはもちろんできないし、口の重い相手に警察手帳を示して何らかの証言を得ることもできない。こうした足かせが、ミステリーのスパイスとして機能している。

ただ、刑事だったからこその直感や観察眼が、結果的に見えない事象を浮かび上がらせてしまう。いくつかの事件解決や知りたかった真実の提示があるが、爽快感より後味の悪さが残る場合もある。このあたり、実に芦沢さんらしい。

ミステリーというジャンルの拡張を頭に置いているようにも読める。そして何より、読者を震撼させる力がある。平穏無事な私たちの生活のあちこちに、実は悪意の種がばらまかれているのではないか。悪意に巻き込まれているのは正太郎だけではない。読者も当事者なのだ。

(は)

静岡新聞の論説委員が、静岡県に関係する文化芸術、ポップカルチャーをキュレーション。ショートレビュー、表現者へのインタビューを通じて、アートを巡る対話の糸口をつくります。

エンタメ
暮らし

あなたにおすすめの記事

  • 【第173回直木賞、芥川賞、27年ぶり該当作なし】 直木賞候補6作、こんな作品でした。レビューをまとめて読めます

    【第173回直木賞、芥川賞、27年ぶり該当作なし】 直木賞候補6作、こんな作品でした。レビューをまとめて読めます

    論説委員しずおか文化談話室

    #エンタメ
    #暮らし
    #浜松市
    #沼津市
    #裾野市
  • 【第172回直木賞候補作品から④ 朝倉かすみさん「よむよむかたる」】 「生きがい」を描いているように見えるが

    【第172回直木賞候補作品から④ 朝倉かすみさん「よむよむかたる」】 「生きがい」を描いているように見えるが

    論説委員しずおか文化談話室

    #エンタメ
    #暮らし
    #本・書店
    #県外
  • 【第173回直木賞候補作品から(5) 塩田武士さん「踊りつかれて」】 義憤に駆られた誹謗中傷がもたらすものとは。SNS時代の被害と加害の反転をリアルに描く

    【第173回直木賞候補作品から(5) 塩田武士さん「踊りつかれて」】 義憤に駆られた誹謗中傷がもたらすものとは。SNS時代の被害と加害の反転をリアルに描く

    論説委員しずおか文化談話室

    #エンタメ
    #暮らし
    #浜松市
  • 【第173回直木賞候補作品から(4) 青柳碧人さん「乱歩と千畝」】森下雨村、黒岩涙香、木々高太郎、小栗虫太郎、大下宇陀児、横溝正史…。「新青年」関係者が次々登場!

    【第173回直木賞候補作品から(4) 青柳碧人さん「乱歩と千畝」】森下雨村、黒岩涙香、木々高太郎、小栗虫太郎、大下宇陀児、横溝正史…。「新青年」関係者が次々登場!

    論説委員しずおか文化談話室

    #エンタメ
    #暮らし
    #沼津市
  • ​【第173回直木賞候補作品から(6)完  柚月裕子さん「逃亡者は北へ向かう」】東日本大震災で検察がくだした苦渋の決断を物語に昇華。現実とフィクションの境目が見えない予言的小説

    ​【第173回直木賞候補作品から(6)完 柚月裕子さん「逃亡者は北へ向かう」】東日本大震災で検察がくだした苦渋の決断を物語に昇華。現実とフィクションの境目が見えない予言的小説

    論説委員しずおか文化談話室

    #エンタメ
    #暮らし
  • 【第171回直木賞の受賞作を大予想!】2回連続で的中させた静岡新聞記者が推す本命は? 候補作の魅力を交えて発表します!

    【第171回直木賞の受賞作を大予想!】2回連続で的中させた静岡新聞記者が推す本命は? 候補作の魅力を交えて発表します!

    SBSラジオ ゴゴボラケ

    #エンタメ
    #県内アートさんぽ
  • 【第172回直木賞候補作品から⑤ 木下昌輝さん「秘色の契り 阿波宝暦明和の変顛末譚」】 現代に置き換え可能な歴史小説

    【第172回直木賞候補作品から⑤ 木下昌輝さん「秘色の契り 阿波宝暦明和の変顛末譚」】 現代に置き換え可能な歴史小説

    論説委員しずおか文化談話室

    #エンタメ
    #暮らし
    #本・書店
    #伊豆
    #牧之原市
    #熱海市
  • 【直木賞】島田市出身の永井紗耶子さんの「木挽町のあだ討ち」が候補に。静岡県勢41年ぶりの快挙なるか!

    【直木賞】島田市出身の永井紗耶子さんの「木挽町のあだ討ち」が候補に。静岡県勢41年ぶりの快挙なるか!

    SBSラジオ ゴゴボラケ

    #エンタメ
    #県内アートさんぽ
  • 【永井紗耶子さんの直木賞候補作「木挽町のあだ討ち」】現場は芝居小屋でなくてはならない

    【永井紗耶子さんの直木賞候補作「木挽町のあだ討ち」】現場は芝居小屋でなくてはならない

    静岡新聞教育文化部

    #エンタメ
    #県内アートさんぽ
  • 【第172回直木賞候補作品から① 伊与原新さん「藍を継ぐ海」】 幾重もの縦糸横糸が美しく織り上がっていく

    【第172回直木賞候補作品から① 伊与原新さん「藍を継ぐ海」】 幾重もの縦糸横糸が美しく織り上がっていく

    論説委員しずおか文化談話室

    #暮らし
    #エンタメ
    #本・書店
    #県外