2025年6月25日

【第173回直木賞候補作品から(1) 逢坂冬馬さん「ブレイクショットの軌跡」】不幸の種を内包したSUV「ブレイクショット」。魅力的なエピソードをギュッと結束

2021年に若き女性スナイパーを描いた「同志少女よ、敵を撃て」でデビューし、同作で2022年本屋大賞に選ばれた逢坂さんの、長編単著3作目。人気の四輪駆動車「ブレイクショット」を乗り継ぐさまざまな所有者が、それぞれにとって「望ましくない事態」に巻き込まれていく。
不幸の種を内包したSUVは、この物語の主役と言っていい。新興ファンドの副社長、不動産投資の営業マン、そして中央アフリカ共和国の少年兵。同じ車を乗り継いだ人とその周辺が、不思議な縁で結ばれる。
ホラー映画における「呪いの人形」のように、この車に乗る者は大きな困難に直面する。ただ、逢坂さんの小説だから、極端に超現実的な現象は起こらない。「車のせい」で事態が動くことはない。ブレイクショットは黙して語らず、常に傍観している。
人の運命を変えるのは常に「相棒」だ。証券会社勤務の男は、経済産業省の官僚として活躍する大学の旧友とファンドを立ち上げ、副社長に収まる。将来のサッカー日本代表入りを嘱望されるミドルティーンの男の子は、二つ上のチームメイトに選手としての未来を託す。高校時代に起業した男は、切れ者のヤクザに見いだされ投資系YouTuberとしてのし上がる。
ブレイクショットはそれぞれの話をつなぐチェーンのような存在だ。仮にこの車を一人の人間に置き換えてみよう。それはそれで立派な一代記が出来上がるかもしれない。
だが、「人の中心線」を作ってしまうと、魅力的なエピソードの数々はサイドストーリーとして埋没してしまうだろう。ここから先は想像でしかないが、逢坂さんはユニークな短編をたくさん「思いついてしまった」のではないか。
短編集にはしたくない。長編小説にするならどうするか。そこでひらめいたのが「無機物の一代記」に各話をぶら下げ、有機的に関係させる、というアイデアだったのではないか。
各エピソードは着地点がバラバラなのに、ギュッと結束されている。ブレイクショットは「結束バンド」の役割を果たしている。
ビリヤードにおけるブレイクショットは、整然と並べられた九つのボールを激しく分離させる。言葉の持つ二つの相反するイメージは、拡散と収縮を繰り返す本作を象徴しているようだ。
ブレイクショットの組立工場は静岡県内にある。県内産の車の物語、として読むこともできる。
(は)
静岡新聞の論説委員が、静岡県に関係する文化芸術、ポップカルチャーをキュレーション。ショートレビュー、表現者へのインタビューを通じて、アートを巡る対話の糸口をつくります。
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