
「オレンジ色の火の粉…ああ、もう逃げ場がないな」7歳の少女が見た浜松大空襲の地獄絵図【戦後80年つなぐ、つながる】#戦争の記憶

忘れたくても、忘れられない記憶があります。
浜松市に暮らす野田多満子さん(87)にとって、1945年6月18日未明のことは、他の多くの記憶が薄れても、きのうのことのように、鮮明に脳裏に焼き付いているといいます。1717人が犠牲となった浜松大空襲。当時7歳だった少女の目に映った現実です。
当時、野田さんは国民学校の2年生でした。しかし、学校で勉強したという記憶はほとんどありません。「登校しても、警戒警報や空襲警報が鳴るとすぐに家へ帰らされていた」という野田さん。幼い少女の日常は、戦争の影に覆われていました。
悪夢の前日6月17日の昼間は、珍しくサイレンの音も聞こえず、静かだったといいます。寝る時、母親が「きょうは静かだったから、ゆっくり寝れそうだね」と話していたのを覚えているといいます。その言葉に安心して眠りについた矢先のことでした。
「どうやって起きたのか記憶にないがとにかく飛び起きた」
ワンピース1枚を羽織って外へ飛び出すと、信じられない光景が広がっていました。
「人間の洪水が…」
「向かいの家に爆弾が落ちて、もう火の火柱が屋根を突き抜けて上がっていた」。夜の闇を切り裂く火柱が、向かいの家の中を隅々まで照らし出し、狭い路地を人々が逃げ惑う姿が見えたといいます。野田さんは近くの雑木林にあるほら穴へ向かおうとしました。しかし、高台になっていたそこから見えたのは、絶望的な光景でした。
「もう見渡す限り、もう180度火の海…それがどんどん、どんどん自分に押し寄せてくる感じだった」。自分の立っている場所以外、すべてが炎に包まれていく。子供心に「ああ、もう逃げ場がないな」と直感したといいます。
ここにいては危ないと自宅に引き返すと、母と姉が鴨江観音近くにある防空壕へ向かうところでした。命からがら壕にもぐり込みましたが、安堵も束の間、「壕の上に焼夷弾が落ちたぞ」という声が響きます。「こんな中にいたら焼け死んじゃう」。人々はパニックになり、我先にと外へ逃げ出します。
「ちょっと、待っていて。ちいちゃんを連れてくる」。野田さんの母親は、そう言い残し、足が不自由で避難が遅れていた知人の「ちいちゃん」を助けるため、人の波に逆らって壕の中へ戻っていったのです。野田さんは人の力に押されるまま、姉ともはぐれ、気づけば大通りへ。そこは、道幅いっぱいに人々がひしめき合う、まさに地獄絵図でした。
「人の洪水、人間の洪水がダーっと流れているようで。押されて、押されて、その中に吸い込まれた」。野田さんは逃げ惑う群衆に囲まれ、辺りは何も見えません。ただ、転ばないように、踏み潰されないように、前の人の足だけを頼りに無我夢中で、佐鳴湖の方向へと走りました。
どのぐらい逃げたでしょうか。突然、群衆が突然割れ、そこには、もんぺに火がついて、路上に倒れている女の子の姿が目に飛び込みました。男の人が慌てて火を叩いて消そうとしますが、熱気と風で炎はさらに燃え上がったといいます。わずか数秒の出来事でした。
「オレンジ色の火の粉が降り注ぎ、人がバタバタと倒れていく。私もあの火の海の中に吸い込まれていくのではないか」。立ち止まることのできない恐怖の中、野田さんは、ただ生きるために走り続けました。
「飛行機の腹がパッと割れて…」
どれくらい走ったでしょうか。畑のような開けた場所に出ました。すると、はるか向こうの空にB29爆撃機の編隊が見えたといいます。次の瞬間でした。
「飛行機の腹がパッと割れて、バーっとごみを散らすように…爆弾だったと思うんですけども、ごみを捨てるようにバーバーと何かを落としていった」。
次から次へと飛来し、爆弾や焼夷弾を投下していく。やがて、飛行機は自分の頭上へ。一緒に逃げていた男性が「年寄りと子供は中入れ」と野田さんたちを農機具小屋へと押し込みました。一緒にいたお年寄りは、必死に念仏を唱えていたといいます。
「たとえ、頭の上で爆弾を落としてもそれていくから」。大人たちは何とか落ち着かせようとしますが、野田さんはまるで、上からもうすごい重さでぎゅうぎゅうと押されて息ができないような感覚になったといいます。言葉にできないほどの恐怖でした。
「お母さん死んじゃったわよ」
気づけば爆撃機の姿はなく、夜が白々と明け始めていました。野田さんは周囲を見回すと、自分はまったく見ず知らずの家族と一緒に逃げてきたことに気づきます。呆然としていると、姉の姿を見つけました。まさに奇跡でした。
野田さんは姉と2人、母親が迎えに来てくれるかもしれないと待ち続けましたが、夕方になっても誰も来ません。姉は「帰ろう」と言いました。しかし、帰り着いた鴨江観音近くの防空壕周辺は、変わり果てた「灰色の死の世界」でした。

「生きているっていうか、生命のあるもの、命のあるものは自分たちしかない。草1本もなかった」
すると、前から2人の女性が歩いてくるのが見え、野田さんはほっとしました。これで助かる、と。しかし、彼女たちからかけられたのは、あまりにも無慈悲な言葉でした。
「『あら、あんたたち生きてたの?』って。頭のてっぺんから膝の先までじろじろ見て、『お母さん死んじゃったわよ』と言って、そのまま立ち去った」。その時の絶望感は、今も忘れられないと語ります。
真っ白な棺の上に落ちた涙
母親は、野田さんが押し出された防空壕の近くで見つかりました。亡骸はきれいなままだったといいます。大人たちからは「見ない方がいい」と言われたものの、そっと遺体を覆う布をめくると、そこには見たこともない綺麗な花柄の着物がかけられていました。「これはお母さんじゃない」。野田さんは必死に辛い現実を否定しました。
埋葬の日。穴の中に降ろされた真っ白な棺に、姉と2人で砂をかけました。その時、姉の涙がポトポトと棺の上に落ちるのが見えました。「本当声も出さず、涙だけがポトポトと…『ああ、お姉ちゃん泣いてるんだ』と。私はそれまで甘えん坊だったのに、泣かなかった」。次から次へと起こる辛い出来事に、感情が追いつかなかったのかもしれません。
「楽しんだり、喜んだりすると申し訳ない」
あれから約80年。空襲の記憶は、野田さんのその後の人生にも大きな影響を与えました。「自分が楽しんだり、喜んだりすると、亡くなった方々に申し訳ないっていう気持ちで。罪悪感を感じてしまう」。長い間、あの悲劇のことは忘れた方がいいのではないか、そう思って生きてきた野田さん。しかし10年ほど前、遺族会の活動を知り、考えが変わったといいます。

「平和がどんな尊いかということを、子供たちにも伝えていかなければならない。私も気持ち切り替えて、身近にこういうことがあったことを話していこうと誓った」。テレビで世界の紛争の映像が繰り返し流れるたびに胸が痛むと語る野田さん。二度とあのような思いを誰にもしてほしくない。その強い願いが、野田さんを突き動かしています。
「あしたを“ちょっと”幸せに ヒントはきょうのニュースから」をコンセプトに、静岡県内でその日起きた出来事を詳しく、わかりやすく、そして、丁寧にお伝えするニュース番組です。月〜金18:15OA
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