
「平和がどんなにありがたいか。理解して正しく生きてほしい」兵器工場を狙った豊川空襲 生き延びた2人の女性の記憶 平和の決意を娘がつなぐ【戦後80年つなぐ、つながる】#戦争の記憶

シリーズでお伝えしている「戦後80年つなぐ、つながる」。終戦間際、愛知の兵器工場を狙った大空襲から生き延びた静岡県内在住の女性2人が、80年の時を経てつながりました。親睦を深め当時の記憶を辿る2人。彼女らの証言を未来につなごうとする娘の姿もありました。
<日名地登志子さん(96)>
「ねえ、96歳になっちゃった」
浜松市天竜区佐久間町に住む日名地登志子さん。学生時代、愛知の兵器工場で働いていた時に経験した空襲の記憶を2024年、初めてカメラの前で語ってくれました。
<日名地さん>
「薬きょうが爆ぜる音、耳の底に入っちゃってね。いつまでも忘れんね」
<内山千代さん(96)>
「こんにちは、お邪魔します」
取材を経て新しい出会いがありました。
<内山さん>
「元気だった?」
<日名地さん>
「ええ元気です、おかげさまでね」
静岡市清水区蒲原に住む内山千代さんです。
<記者>
「これが日名地さん?」
<日名地さん>
「はい」
<内山さん>
「私がね、これ」
<記者>
「当時もお知り合いだった?」
<2人>
「全然」
<日名地さん>
「お手紙をいただきましてね」
2024年、放送を見た内山さんが日名地さんに宛てた手紙。2人は同じ兵器工場で働き空襲の中を生き延びました。
『東洋一の兵器工場』と呼ばれ、昼夜5万人が働いた豊川海軍工廠。日名地さんは15の春から会計部で、内山さんは14歳から弾丸の選別などをする加工部で働きました。80年の時を経てつながった2人の乙女。
<日名地さん>
「あの時分の話はね、その人でなけりゃわからん。昼間だっただよ。午前中」
<内山さん>
「そう。10時何分だか」
<日名地さん>
「爆弾から焼夷弾から、パンパンパンパン、夜みたいになっちゃって」
<内山さん>
「爆弾とか焼夷弾とか色々だね」
1945年8月7日、工廠を狙った豊川空襲では26分間のうちに3256発の爆弾が落とされました。死者2500人以上、負傷者は1万人を超えたとされています。
<内山さん>
「(自分は)壕に一旦逃げたけど、ちょっと止んだからね、機銃掃射が。で、(工廠の外に)逃げたのよ」
<日名地さん>
「(自分は)防空壕がやられなんだだけよ。直撃でやられりゃね、まあだめだったね…」
<内山さん>
「平和がどんなにありがたいか。もう少し理解して。正しく生きてほしいと思うね。戦争はもちろんのことだけどね」
同じ空襲とはいえ体験や記憶はそれぞれ。しかし未来につなぎたい願いは同じです。2人の言葉を書き留めるのは内山さんの長女小林京子さんです。母親たちの経験を未来につなごうと小林さんは文章をつづっています。
<小林京子さん(70)>
「受け入れざるを得ない現状を受け入れてやってきた人たち。共に戦ってきたからこその…つながりなのかなって」
題名は『戦友』です。
<小林さん>
「どんな思いでそこで働いて、どんな思いで生きてきたのかっていうのを、やっぱり残したいなって、私は思うんです」
時の重さを増しながら平和への決意はつながっていきます。
「あしたを“ちょっと”幸せに ヒントはきょうのニュースから」をコンセプトに、静岡県内でその日起きた出来事を詳しく、わかりやすく、そして、丁寧にお伝えするニュース番組です。月〜金18:15OA